日光旅行
2007年10月

一日目 二日目

2007年10月5日。

旅行に行くから、今日の仕事は早目にあがろう。

時計に目をやると、そろそろ定時だ。

最悪、20時にあがらないと一眠りできない!

そう思いながらキーボードをカタカタカタカタカタカタカタ・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・。

・・・・・・。

ふと時計に目をやる。

・・・・・・ん?

21時

んんん!??

既に21時だったorz

結局、今回も寝ずに出発なわけなのね。

家を出発して22時半に保○ヶ谷駅に到着。

自分は、旅行スタート時の時間が割りと好きらしい。

法定速度遵守でゆっくり第1目的地に到着。

6日の0時15分のこと。

当初は自分を含めて4人の男旅行の予定だったけど、1人が仕事上のトラブルで現地(日光)集合。

そのため、日光まで3人の男旅行。

・・・・・・・・・そして3人以上の男旅行は初めてだ!てことに気付いた(汗)

途中のコンビニでポーションならぬ栄養ドリンクを流し込んで、仕事の疲れも何のその!

1時半頃、日○で3人目を拾って、改めて日光へ。

東北自動車道を利用し、車を走らせる事、約4時間。

段々と空が明るくなり、保護ライトだけで走行できる頃には、日光宇都宮道路を走行中。

日光ICでは降りずに、手前の今市ICから一般道119号へ。

何故ここで降りたかというと、『日光東照宮』方面までの道程の途中に1つ目の観光したいスポットがあるから(汗)

『日光杉並木街道』に到着。

日光杉並木街道
樹齢370年を超える杉の巨木が13,000本も続く唯一、国の特別史跡・特別天然記念物の二重指定を受けた貴重な文化財。また世界一長い並木道としてギネスブックにも掲載されている。この杉並木は、徳川家康・秀忠・家光の3代にわたって将軍家に仕えた松平正綱が、20年の歳月をかけて植樹したもので、慶安元年(1648)、主君家康公の三十三回忌に、東照宮への参道並木として寄進された。また、当時植えられた杉は24,000本とされているが、現在では13,000本に減っている。

・・・・・・・・・て、さむっ!

めちゃめちゃ寒い。

辺りを見渡すと、、自分の車の他に駐車場に停まっているのは2〜3台だけ。

ま、こんな朝早くじゃ観光客なんているわけないか(笑)

案内図を見ると全長約1キロの杉並街道

で駐車した場所は、なぜか杉並街道の中央に位置する駐車場(汗)

とりあえず『日光東照宮』方面へ歩いてみる事にした。

<AM05:30 日光杉並木街道>

駐車場から街道に降り立つと、両サイドから天に突き抜けるような高さまで、自己主張するように大木の杉が伸びている。

道の両脇には用水路があり透き通った水が流れている。

触ってみると案の定・・・・・冷たかった。しかも、思った以上に流れが急だ。

水に触れるついでに、そのまま落ちるお約束は・・・・・できません!

つーか、こんな気温が低い早朝からずぶ濡れになったら、シンデシマイマスヨ?

地元の方だろうか、こんな早朝にもかかわらず散歩をしている方がいたので爽やかに(?)挨拶をしながら進む。

15分くらいだろうか、程なく歩くと道が開けた場所に出たので、ここで終わりなんだな、と解る。

右を見ると『杉並木公園』なんてものがあった。

ここにも案内図があったので、覗いてみると、どうやら数多くの水車が点在しているみたい。

入ってみると、まず最初に目に飛び込んできたのは、奇妙なオブジェと『旧江連家』

『旧江連家』と呼ばれる古民家は中に上がり込んで、見学ができるらしいけど、もちろんこんな時間からあいているわけもないので外観で満足して次へ。

いきなり妙な看板を発見。

<AM05:45 注意看板(笑)>

・・・・・・・・・・・・・熊?

いや、いやいやいや。

しかも早朝注意だとか書いてあるし。

今、思いっきり早朝なんですけど!

度肝を抜かれる看板だけど、わ、笑えね〜(汗)

人間てのは想像力豊かな生き物でして、想像したらゾッとした。

茂みからのそっと現れたら、多分硬直するな、オレ。

でも、せっかく来たんだしここで引き返してしまうのもなんなので、前進あるのみ(笑)

すぐ左側にそば処・報徳庵が見えたけど、開いてないし空腹もなかったのでスルー。

ちなみに、この報徳庵は、

報徳庵
130年前に二宮尊徳が日光神領89ヶ所村の農村復興に伴い建築した農家住宅

・・・・・・・のレプリカ。

その先には、直径10m・幅0.8mの巨大な水車が。

<AM05:50 大水車>

久しぶりに水車を見たっていうのと、あまりの大きさに言葉を失う。

この水車の名前は単純そのもの、『大水車』

ソノマンマデスネ。

園内には小川が流れているけど、これがまた、結構な水量と流れの速さ(汗)

落ちたらシャレにならんって感じ。

それに、これだけ大きな水車を動かしているんだから、当然といえば当然か。

お次は先ほどよりは幾つもの小ぶりな水車が、整然と1列に並んでいた。

<AM05:50 普通の水車?>

普通の水車やからくり水車、揚水水車などを総じて『日本の水車』と称してあった。

次に移動しようとした時に、妙に線路が近いことに気が付いたので、とりあえず1枚。

<AM05:50 朝日>

あー・・・・・、朝日って綺麗だなあ。

この光を浴びる事によって、俗世の穢れが流されていくようだ。

・・・・・・・・・まあ、流されてないけど。

日本庭園にそば粉挽き水車小屋があった。

<AM05:55 水車小屋>

とりあえず音が聞こえなかったので、恐る恐る覗いてみる。

<AM05:55 水車小屋内>

・・・・・・・・と、そば粉挽きが機能していなかった。

ていうか完全にストップ状態orz

なんじゃそりゃあ!

まだ水車はある。

続いて『世界の水車』コーナー。

<AM06:00 世界の水車>

全部で4つの水車があるけど、中でも目を引いたのは『インディアン水車』(手前の水車)。

昔、アメリカでインディアンが魚を捕るために用いられた水車らしい。

4つのどの水車も動いてなかったんだけどね、はははは・・・・・・。

野外彫刻や怖さを感じた枯れた『あじさい園』を通り過ぎ、いよいよ最後の水車。

<AM06:00 あじさい園>

大き目の水車が、お互いにすぐ近くで回っている。


<AM06:10 重連水車>

これは『重連水車』というらしく、1箇所に2連の水車を設置する事で、動力を高めているんだとか。

『日光杉並木街道』の入り口に到着。

車を停めた『日光杉並木街道』の真ん中の駐車場を目指す。

入り口から進んで、すぐ右手に『高尾神社』があった。

<AM06:15 高尾神社>

なぜか鳥居をくぐる事もなく、写真1枚撮って満足してしまった(汗)

次に、車を20分ほど走らせたところに『憾満ケ淵』((かんまんがふち)もしくは含満ヶ淵)という名所がある。

そこには行きと帰りに数えた地蔵の数が変わる、という摩訶不思議な地蔵群、通称・『化け地蔵』があるので早速行くことにする。

119号を左に入っていくと、小さな看板で『化け地蔵』と記してあった。

大谷川を越える辺りになると、道がえらく狭い。

対向車が来ませんように(-人-)

内心冷や冷やしながらこじんまりとした駐車場に到着。

車から降りると・・・・・・・やっぱり寒いんですけどorz

駐車場の左に登山口らしい登りの道と、そのまままっすぐ伸びた道がある。

まっすぐ伸びた道を進むと、『慈雲寺』の山門が見えてきた。

<AM06:45 慈雲寺の山門>

どうやら、歩いてきた道は『慈雲寺』の参道みたい。

慈雲寺
慈雲寺は承応3(1654)年に晃海僧正が創建。しかし当時の建物は明治35(1902)年の洪水で流失した。現在の本堂は昭和48(1973)年に復元されたもの。

川沿いに上流に向かって、少し歩いていくと右手に東屋らしき建物が見えた。

護摩壇

霊庇閣で、慈雲寺創建のとき、晃海僧正が建立した護摩壇で、対岸の不動明王の石像に向かって護摩供養がおこなわれた。これも当時の建物が流出したため、昭和46(1971)年に復元された。

すぐ側に、説明が記されている立て看板があるので、読んでみると、

弘法の投筆
この護摩壇の対岸の絶壁に、「かんまん」の梵字が刻まれている。この梵字には弘法大師が筆を投げて彫りつけたという伝説があり、「弘法の投筆」といわれている。しかし、実際は、この地を開いた晃海が山順僧正の書した梵字を刻ませたもの。晃海と空海(弘法大師)の発音が似ているため、誤って伝えられたのであろう。

とのこと。

巨岩を降りていき、川のすぐ側まで近寄って対岸の岩壁を目を凝らしてよく見る。

んんん〜?

<AM07:00 梵字 Part1>

・・・・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・やっと見えた(汗)

<AM07:00 梵字 Part2>

うっわ。ホントに文字が彫ってあるよ!

なんか、ちょっと感動した。

感動したついでに、怒涛の勢いで流れている川に触れてみる。


<AM07:00 憾満ケ淵>

つめたっ!

目の覚めるような冷たさ。

しかも水は澄んでいて見とれるほど。

この『霊庇閣』のすぐ奥に『化け地蔵』がある。

で、この辺を『憾満ケ淵』といらしい。

憾満ケ淵
男体山から噴出した溶岩によって生成された奇勝。川岸に巨岩があって、岩上に晃海僧正によって造立された不動明王の石像が安置されていた。「かんまん」の名は、不動明王の真言(咒文(じゅもん))の最後の句から出ている。それを漢字にあてて「憾満」と書いた。また、「含満」とも書くので「がんまん」と濁って発音されることが多いが、実際は「かんまん」と読むのが正しい。

早朝のためか他の人はいなく、思いっきり火サスに出てきそうな場所で、その雰囲気もたっぷり(笑)

いよいよ『化け地蔵』へ。

そもそも化け地蔵が目的だったため、『憾満ケ淵』はオマケのようなものだった。

まあ、オマケのスケールがでかかったのは予想外だったけど(笑)

このお地蔵さんは大きく分けて2箇所に纏まっているようだ。

化け地蔵

約70体の地蔵群が1列に並んでいて、慈眼大師天海の門弟が彫ったもので、当時は100体ほどもあった。しかし、明治35(1902)年の大洪水で何体かが流されている。このとき地蔵群の先頭に配置されていた「親地蔵」も流されてしまったが、幸運にも川床に埋没していたその御首を発見し、現在は浄光寺に安置されている。この地蔵群には「化地蔵」「並地蔵」「百地蔵」などの呼び名がある。化地蔵の由来は、みんな似たような姿なので何回数えても数が合わないからという説と、仏教用語の「抜苦与楽(ばっくよらく)」の「抜苦」がつまって「化(ばけ)」となったという説がある。

早速、数え始める。

もちろん、それぞれ声には出さないで(笑)

1箇所目は3人とも同じ数。

<AM07:15 化け地蔵 Part1>

そのまま2箇所目のお地蔵様群に突入するも、やはり同じ数。

<AM07:15 化け地蔵 Part2>

いきなり行きで数が違っていたら、『化け地蔵』の由来を覆しかねない現象だ(笑)

ここからアウターゾーンに入ってしまう人間はいるのか否か!

ちょっとばかり、ゆっくりと念入りにお地蔵様を数える。

・・・・・・・・・・・。

で、答え合わせ。

・・・・・・・75体。

・・・・・・・75体。

・・・・・・・74体。

あれ?1人違う!?

数が合わなかった連れは焦っている様に見受けられましたが(笑)

どうやら行きの1箇所目に当たるお地蔵様群で、アウターゾーンに入ってしまったらしい。

まあ、お地蔵様を数える事も楽しみの内だけど、早朝で人がいないこともあるだろうけど神聖な雰囲気だった。

中には首が欠けてしまっているお地蔵様もいたけど、よく見ると1つとして同じ顔がないように見えた。

こういう場所って今後も消えてほしくないなあ。

現地合流する友達との待ち合わせは昼なので、まだまだ時間がある。

なんてったって、駐車場に戻ったらまだ朝の8時だったし(汗)

メインイベント(?)の『日光東照宮』は最後の1人が合流してからにしよう、ってことになったので、少し離れた『湯滝』に決定。

数年ぶりの『いろは坂』の急斜面に青息吐息のマイウィングロード、『中禅寺湖』を通過して『湯ノ湖』に到着。

・・・・・・・・・・・極寒なんですけどorz

あー、そういえば道すがら8℃って表示を見かけたなあ。

曇っていて軽く風もあってか余計に寒い。


<AM09:00 湯ノ湖>

なにやら雰囲気的に避暑地のような感じ。

さぞや夏は快適な場所だろうな。

紅葉の時期には少し早かったけど、標高が高いためだろうか、微妙に・・・・・・・・・・・・・・。

<AM09:00 湯ノ湖 紅葉?>

『湯滝』を目指して、湖畔を歩くが・・・・・・・・周りを見渡すと、軽装備な自分たちに比べて軽い登山もしくはハイキングな装いの人ばかり。

これはどうした事か、何か間違ってる!?

おまけに熊よけのも付けてるし(汗)

なんだ!?熊出没はここでもなのか!!?

湖畔を歩くといっても、山道のような感じで整備はされてない。

で、歩けど歩けど水の音はなく、聞こえてくるのは鈴の音と息遣い、鳥の鳴き声だけ。

・・・・・・・・・・・ホントにこの先に滝があるのか?

猜疑心に駆られたところで、ほどなくしてユーターン。

無理無理。

下手すると湖畔一周になりかねん。

で、思い出す。

『湯ノ湖』にくる途中に、『湯滝』って看板が見えたような・・・・・・・・・・・・。

そんな訳で、寒い思いをしながら来たけど、迷わず戻る事にする。

10分くらい走らせたところに、それはあったorz

駐車場はけっこうな車が止まっている。

奥に進むと豪快な水の音が!

<AM09:45 湯滝>

しばし見とれた。

すげ〜〜〜!!!!!!!

轟音と水しぶき、スケールのでかさに圧倒された。

自分は全くのノーチェックだったので、良いものを見させてもらった。

非常に寒いので、すぐ側にある『湯滝レストランハウス』に寄る。

店頭で団子を炭で焼いていた。

もちろん食べた。朝飯食ってないし、寒いし、あまりにもおいしそうに見えたもので(笑)

<AM10:00 鮎の塩焼き 500円>

頭から尻尾までバリバリ食べた。

『鮎の串焼き』なんていつ以来だろう。

塩加減が絶妙!

<AM10:00 団子 300円>

次は『団子』

画像で見ると大きさがわからないけど、けっこう大きい。

タレはほのかに柚子の香りがして、これも大変おいしかった。

かなりの種類のソフトクリームがあったけど、この気温じゃ・・・・・・・。

腹八分目になったところで、合流メンバーが11時半頃に『東武日光駅』に着くとの連絡があった。

早めについて駅で軽く寝ようかってことで、出発。

それにしても、修学旅行シーズンなのか、小学生くらいの団体がぞろぞろいたな。

自分が小学生の頃は、日光には来なかった気がするけど。

結局、『湯ノ湖』の中間地点に『湯滝』はあることが判った。

11時に『東武日光駅』に着いたけど、寝ずに駅ロータリーをグルッと散策。

目に飛び込んだのは『はちみつソフトクリーム』

<AM11:00 はちみつソフトクリーム 250円>

この頃には日が出て適温だったため、購入。

ほのかにはちみつの味がする。

でも、はちみつがもっと強いほうが良かったかな。

そうこうしている内に、合流!

いやー、無事に合流できてよかったよホント(笑)

フルメンバーが揃ったところで、いざ行かん『日光東照宮』

<AM11:45 参道>

いよいよこれからって感じで、ワクワクドキドキ状態(笑)

雑誌にはバラバラで拝観料を払うより、多少の制限があるが共通券の方がお得とあった。

そんな訳で、大人1000円の東照宮(奥宮を除く)・二荒山神社(神苑を除く)・輪王寺『二社一寺共通拝観券』を購入。

『日光東照宮』
江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現を祀る。全国の東照宮の総本社的存在。正式名称は「東照宮」だが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが多い。また、家康が日光に祀られることになった経過は、本人の遺言から。遺言に「遺体は久能山におさめ、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神としてまつること。そして、八州の鎮守となろう」とある。家康が目指した「八州の鎮守」とは、「日本全土の平和の守り神」。家康は、不動の北極星の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたのだろう。その後、日光は明治の神仏分離によって神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立。

<AM11:45 五重塔>

と、表門をくぐる前に左に『五重塔』を発見。

蟇股
初層の蟇股(かえるまた)には十二支の動物が彫刻されている。蟇股は一面に三つ、四面で合計十二になっている。蟇股とは、蛙(蟇)が脚を広げてふんばった姿勢と似ているところから蟇股と名付けられた。

とまあ、そんなことは露知らず、『表門』へどんどん進む(笑)

・・・・・・・・・それにしても思った以上に人が多いな。

さすが連休といったところかorz

<AM11:45 表門>

表門
表門は正面左右に阿吽の仁王像を安置しているため、かつては仁王門と呼ばれていた。仁王は仏教の守り神。明治4(1871)年の神仏分離で仁王像は大猷院(たいゆういん)の仁王門に移行。それ以来、門の名称も表門と呼ばれるようになった。仁王像が戻ってきたのは明治30(1897)年、門の側面にいる唐獅子や獏、麒麟など82の彫刻が施されている。

『表門』をくぐると、直ぐ左に『神厩』が見える。

凄い人だかり(汗)

ここにはあの有名な『三猿』が施されているのだから、この有様は当然か。

<PM00:00 神厩>

神厩
神厩舎は神様に仕える神馬の勤務場所。神馬の条件は雄の白馬。神厩舎は東照宮で漆を塗っていない唯一の素木造り(しらきづくり)。猿は馬を病気から守るとされ、室町時代までは猿を馬屋で飼う習慣があった。

<PM00:00 三猿>

『長押』(なげし)の上に「見ざる、言わざる、聞かざる」『三猿』で有名な猿の彫刻が8面掲げられていて、左から順に物語になっている。

どこを見ても精細な彫刻で、感嘆してしまう。

<AM00:00 神馬>

参道に入る前に馬の土産が売ってあったから、何の関係があるんだ、これ?

なんて、いぶかしんでいたけど、『神馬』のことだったのね。

『神馬』は見れるときと見れないときがあるらしいけど、そのことは全く知らなかった。

・・・・・・・運が良かったな〜(笑)

<PM00:15 唐銅鳥居>

日本で最初に造られた青銅製の鳥居・『唐銅鳥居』をくぐる。

『陽明門』をくぐる前に、なぜかその手前にある鐘に目を引かれた。

この鐘は『朝鮮鐘』といって、鐘の天井に穴が開いていることから『虫食いの鐘』ともいわれているらしい。

<PM00:15 朝鮮鐘>

入り口で立ち止まって、撮っている人がちらほら。

流れとめてるなあ(汗)

<AM00:15 陽明門>

陽明門
陽明門の名称は、宮中(現・京都御所)十二門のうちの東の正門・陽明門からきている。江戸時代初期の彫刻・錺金具(かざりかなぐ)などの工芸・装飾技術が陽明門に集約されている。その出来栄えから一日中ながめていてもあきないので日暮らし門(ひぐらしもん)とも呼ばれる。また、国宝である陽明門は真南を向いている。

ホントに見ていて飽きない。

500を超える彫刻が施されてあるらしいけど、よく数える気になったな(汗)

<AM00:15 陽明門 裏>

裏はこんな感じ。

麒麟も施されていたけど・・・・・・・・やべー、麒麟=十二国記の図式が成り立ってしまっている(笑)

『陽明門』をくぐると、目の前には『唐門』が。


<PM00:15 唐門>

唐門

東照宮で最重要な本社の正門。江戸時代には将軍に拝謁できる身分・御目見得(おめみえ)以上の幕臣や大名だけが使えた。今日も正月や大祭などの祭典、国賓に相当する参拝者だけしか使えない。

『陽明門』よりケバケバしさがなく(・・・・・怒られそう)基調が白なので、『唐門』のほうが見ていて落ち着く。

<PM00:30 一本灯篭>

『陽明門』をくぐり、右に進むと左手に『一本灯篭』が見える。

右手には何かの社が。

<PM00:30 社?>

何でこれを撮ったのかは・・・・・・・不明(笑)

自分の中でなぜか気になった。

520円を払って、その社の脇を進むと奥社の手前にある坂下の回廊頭上、そこには有名な国宝の『眠り猫』が。

徳川家康の墓に行く手前にあるため、ネズミ1匹通さないという意味があるとか。

<PM00:30 眠り猫>

ここも人だかり(汗)

うーん、眠っているというよりは糸目の猫って感じだ(笑)

その真裏にはが彫られている。

<PM00:30 雀>

眠り猫と雀

猫が起きていれば雀は食われてしまうが、東照宮では猫も居眠りして雀と共存共栄。平和な時代の象徴でもある。

 

さらに先に進むと奥社に通じる『坂下門』があり、ここにも彫刻が施されている。

<PM00:30 坂下門 蟇股>

奥社へ辿り着くには思った以上に階段を上がる事になる。

思ったより辛いぞ。

しかも人もわんさか。

情緒も何もあったものじゃないorz

けど、短いけど真っ直ぐに伸びた石畳の道は良かった。

『奥社拝殿』の前に、面白い自販機を見た。

<PM00:45 自販機>

何これ、ありえないんですけど(笑)

しかも高いし!

もちろんスルーして先へ。

<PM01:00 奥社拝殿>

建物全体を真鍮や銅で覆い、さらにその上から黒の漆が塗ってある。

地味な外観だけどよくよく見ると、小さなところにも細工が施されている。

十何万という人員で短期間で仕上げたとか。

『奥社拝殿』の裏に家康公の墓所である銅製の『宝塔』が鎮座しているらしいので、早速行ってみる。

<PM01:00 鋳抜門>

足を踏み入れる事はかなわないけど、外から見れる。

『鋳抜門』の前には狛犬が睨みを効かせている様。

『鋳抜門』をくぐると見える、『宝塔』

<PM01:00 奥社宝塔>

ここに納められているのは、家康公の神柩だそうだ。

グルッと回ると樹齢600年という大きな杉(画像の左にある円柱)があり、願えばなんでも叶う『叶杉』という有難い杉が。

敢えて何を願ったかは言わないことにするけど(笑)

次は本社へ。ここは靴を脱いで上がる場所で、撮影も禁止なので画像なしorz

本殿
東照宮の最も神聖な本殿は、幣殿・内陣・内々陣の3室で構成されていて、最奥の内々陣に神霊がまつられている。祭礼のときだけ開く本殿扉の上に並んでいる彫刻は獏。獏は悪夢を食べるといわれるが、鉄や銅を食べる説もある。これは武器を作るため鉄や銅がなくなるので、獏は平和な時代にしか生きられないのだという。東照宮の獏の彫刻78頭のうち54頭が最も重要な本殿にいるのは、獏は軍縮の象徴でもあり、平和への強い願いが込められている

『本殿』には入る事ができなかったけど、『拝殿』の天井には100近い1つ1つ異なったデザインの龍が描かれていた。

説明を受けるときは、別に正座をする必要はなかったけど、なぜか正座。

雰囲気がそうさせてしまうんだろうな、と感じた(汗)

百聞は一見にしかず!

危うく香のお守りを買いそうになったけど、ぐっと我慢して後にした(笑)

もと来た道を戻る途中にある『祈祷殿』では神前式らしきものが執り行われてた。

<PM01:45 祈祷殿>

祈祷殿
江戸時代はここで日光門主(もんしゅ)が護摩を焚いて天下太平を祈願したらしい。正式名称は「上社務所(かみしゃむしょ)」という。

世界遺産に囲まれて執り行うってどんな心境なんだろ(笑)

『陽明門』を出ると、直ぐ右手に燈篭がある。

<PM01:45 回転燈籠>

『回転燈籠』(もしくは廻燈籠)は、オランダ献上の8角形の燈籠だけど、三葉葵の紋が逆さまに(汗)

回転っていうくらいだから回転するみたいだけど・・・・・・・・・畏れ多くて廻せません(汗)

『陽明門』を出て、右手に『地堂(薬師堂)』に続く道がある。

<PM01:45 本地堂>

地堂
本尊が薬師如来であることから薬師堂、また乱世を鎮めた家康公が薬師如来の生まれ変わりと考えられたので、本来の仏(本地)をまつったことから本地堂と呼ばれる。有名な鳴竜が描かれているのは本地堂(薬師堂)の内陣天井。竜の頭の下で拍子木を打つと、天井と床が共鳴して鈴のような鳴き声に聞こえる。もとの絵は狩野永真安信の筆によるが、後に焼失したため堅山南風が復元。

やはり、ここも撮影不可orz

有名なだけあって凄い人集り。

竜の頭の下以外のところで拍子木を打っても、乾いた音しかせず、響きもない。

竜の頭の下拍子木を打つと、音が反響して余韻を残す。

これは驚いた。

『東照宮』から『二荒山神社』へ続く『上新道』(うわしんみち)を通る。

<PM02:00 上新道>

杉の巨木や石灯籠が整然と並んでいて、情緒がある。

2、3分歩くと『楼門』が見えてきた。

<PM02:00 二荒山神社 楼門>

『二荒山神社』は、

二荒山神社
正式名称は二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)だが、宇都宮市の二荒山神社との区別のために鎮座地を冠して日光二荒山神社と呼ばれる。日光の三山(男体山、女峯山、太郎山)の神(大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命)を総称して二荒山大神とし、主祭神としている。下野国の僧・勝道上人が前日光から更に奥地に修行場を求め、大谷川北岸に現在の四本龍寺の前身の紫雲立寺を建て(766年)、神護景雲元年(767年)に二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたのが始まりと伝えられてる。二荒山の名は観音菩薩が住むとされる補陀洛山(ふだらくさん)が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたといわれる。

境内に入ると『東照宮』より子供が多い気がする。

露店などはないが、小さな祭りの雰囲気がある。

うん、こういう雰囲気は好きだ。

なにやら短冊が飾ってある輪っかがある。

100円(だったかな?)で短冊を購入して、短冊を持ったまま輪を8の字にくぐると願い事が叶うとか。

<PM02:15 良縁笹の輪くぐり>

早速、くぐってみる。

・・・・・・・友達が。

・・・・・・・・・・・・・短冊なしで(笑)

とてもじゃないけど、こればっかりはまねできなかったm(_ _)m

短冊なしでくぐった友人に敬意を払う!

『二荒山神社』御神木が多い(汗)

<PM02:15 夫婦杉>

根を一つにした夫婦円満の御神木らしい。

<PM02:15 親子杉>

・・・・・・・・忘れたorz

<PM02:30 御神木>

境内で最も大きいらしい。

他にも、三本杉がある。

変わえいたのは『日枝神社』、左回りに『日枝神社』を1周してからお参りをする。

どうして撮らなかったんだろ。

<PM02:30 神楽殿>

その隣の『神楽殿』を撮った・・・・・・・・・・・なぜ!?

神楽殿
神に神楽を奉納する場所が神楽殿。二荒山神社の場合、弥生祭の御前神楽にあたる八乙女舞(やおとめのまい)は拝殿で行われ、ここでは毎年4月2日に国家繁栄の神楽が奉納される。建物は明治17(1884)年に建てられた素木(しらき)の単層入母屋造り(たんそういりもやづくり)で、屋根は銅板ぶきとなっている。

『神楽殿』の斜め向かいには『化灯籠』がある。

<PM02:30 化灯籠>

化灯籠
夜に火をともすと、怪しげな姿に変わるというので、警固の武士に切りつけられた無数の刀きずがある。

で、実際に見るとホントに刀傷らしき跡があった。

『神輿舎』の横に『運試し輪投げ』という輪投げがあった。

3回投げて1回でも入れば運気良好らしい。

もちろん挑戦した。

・・・・・・・・・・・・・・・orz

おかしい、1個も入らなかった(泣)

運気悪い!?

次に目に付いたのが、『大国田道間守』というお菓子の神様のところにある『菓子占い』

ルーレットになっていて饅頭・ケーキ・煎餅・羊羹・クッキー・どら焼きの項目がある。

これも、もちろん挑戦した。

・・・・・・・・・・・・・・・。

クッキーで、内容は良好・出会いの予感らしい。

へー、ほー、はー。

なんか良い事があるのかな・・・・・・・・・・今のところ何もないけどさ!

別に狙った訳じゃないけど、10月1日〜11月23日まで『良い縁まつり』を開催していたらしく、ある意味運が良かったのかな。

何気にここまで楽しめる神社も珍しかった(笑)

夕方近くになってきたため、冷え込んできた。

拝観する箇所は残り2箇所。

直ぐ近くにある、『輪王寺大猷院』(りんのうじたいゆういん)へとやってきた。

輪王寺大猷院
「廟」とは、祖先の霊を祭ったお堂。「大猷院」とは、徳川3代将軍家光公が死後、後光明(ごこうみょう)天皇から賜った法名。つまり、ここは徳川家光公の墓所。

『仁王門』をくぐって、『御水舎』(おみずや)の向かい(左に折れたところ)にある門が日光山内でいちばん大きいとされている『二天門』

<PM03:00 二天門>

二天門
正面櫓の上の額の「大猷院」の文字は後水尾天皇の御宸筆によるものらしい。二天門とは表側に、四天王のうちの「持国天(じこくてん)」と、「広目天(こうもくてん)」の二天を祀っていることから、その名が来ている。また、裏側に雷神が安置されているので、雷門(かみなりもん)とも呼ばれる。

『二天門』をくぐり、階段を上ると展望所がある。

そばにあった案内表示に、

「天界から人界庭園を眺めて御覧下さい」

と書いてあったので、ご覧になってみた。

<PM03:00 展望所>

青々とした苔の海の中に石燈籠が整然と並んでいた。

これで、オレも神の領域に踏み込んだか?(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・電波なことを言ってすみませんm(_ _)m

ちなみに、左奥の建物は『大猷院』を管理する僧院・『竜光院』

さらに進んで行き、『拝殿』にて説明を受ける。

『拝殿』の奥にある『相の間』(あいのま)・『本殿』へは入る事ができないので、説明を受けながら眺める事に。

んが、あまりの寒さと強烈な睡魔が大波のように襲ってきた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・寝ましたorz

所々、拝聴してたけど、もちろん殆んど覚えていない(汗)

『拝殿』を出て、さらに奥へ。

『大猷院』の最奥に位置する家光公の御廟へは、見事な色彩、特に白が際立っていた『皇嘉門』というから入る。

まあ、『皇嘉門』までしか見学はできないけど。

このころには一段と冷え込んできた。

霊廟だから?・・・・いやいや、標高の高さと薄着、寝起きだからでしょ!

そそくさと、最後の『日光山輪王寺』へ。

『輪王寺』
お寺やお堂、15の支院の総称。始まりは勝道上人(しょうどうしょうにん)が天平神護(てんぴょうじんご)2(766)年に神橋(しんきょう)のそばに四本竜寺(しほんりゅうじ)を建立したことから。平安時代の弘仁(こうにん)元(810)年、朝廷から一山(いっさん)の総号として満願寺(まんがんじ)の名をもらい、後に円仁(えんにん)がよって天台宗となった。安土桃山時代には小田原の北条氏に加担したことが仇となり、豊臣秀吉に寺領を没収されて一時衰退。日光が盛んになったのは、江戸時代。慶長18(1613)年、将軍の相談役・天海(てんかい)が貫主(かんす)となってからで、天海が東照宮を創建してから日光は一大聖地へと躍進した。そして、明暦元(1655)年に守澄法親王(しゅちょうほうしんのう)が輪王寺宮(りんのうじのみや)を称した。寺名の輪王寺はこれによる。

重厚さを漂わせる『黒門』から入る。

真っ黒な門。

そういえば、『白川郷』『合掌造り』の柱なんかは煙で黒くなっていたっけ。

『黒門』もそうだったら、面白いな。

と、自分勝手な妄想を抱いたまま、先を急ぐ。

左手に本堂である『三仏堂』へ行く事にしたけど・・・・・・・・・・・・・・・改装中!?

いやいや、一応中には入れた(汗)

少し進むと、超特大級の仏像が鎮座していた。

三仏堂
3体の本地仏(ほんじぶつ)を祀っていることからきている。慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が入山したときに、比叡山の根本中堂(こんぽんちゅうどう)を模して建立したといわれている。日光の三山つまり男体山(なんたいさん)・女峰山(にょほうさん)・太郎山(たろうさん)を神体とし、その本地仏である千手観音(男体山)、阿弥陀如来(女峰山)、馬頭観音(ばとうかんのん)(太郎山)の三仏を祀った。現在、三仏堂で拝観できる本尊は江戸時代初期のもの。本邦屈指の木彫大座像仏といわれており、3体とも金色の寄木造りで、台座から光背の頂まで約8メートルある。

撮影禁止なため、撮る事ができなかったorz

壁を背に1列に並んで、説明を受けた。

かなり間近で拝観できるため、首が痛くなるくらい見上げることになった(笑)

外に出ると『三仏堂』の斜め裏手にある、青銅製の細長い塔・『相輪塔』という物があった。

相輪塔
上部には金瓔珞(きんようらく)というものと、金の鈴がそれぞれ24個つづられていて、下部には徳川家の家紋である葵の紋が3つ見える。それらが、4つの控柱(ひかえばしら)で支えられている姿となっている。これは、寛永20(1643)年、3代将軍家光公の発願(ほつがん)によって天海大僧正(てんかいだいそうじょう)が建てたもの。天台宗総本山の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)にある、天台宗宗祖伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)が初めて建てたとうを模して造られた。とう面に、伝教大師と天海大僧正の銘文がある。

<PM03:45 相輪塔&三仏堂>

なんだかロケットみたいに見えたとかいったら、罰が当たるかな(笑)

画像の左が『相輪塔』、裏側になってしまうけど中央の赤い建築物が『三仏堂』

昼飯は団子だけで(あ、後ソフトクリームも)かなり歩いていたから、心身ともに疲労困憊orz

でも、地図を見ると『神橋』へは歩いて直ぐみたいだから、疲れきった身体に鞭打って向かうことに(笑)

ようやく、着いた!

<PM04:00 神橋 Part1>

寒さと疲れからか、妙に長く感じた道程だったなあ(汗)

神橋1
昔は「山菅の蛇橋」と呼ばれ日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財に指定され、世界遺産に登録された。奈良時代に神秘的な伝承によって神橋が架けられ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられた。神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなった。昭和57年、男体山頂鎮座1200年祭斎行に際し、昭和48年よりその奉賛を目的として、広く一般に公開された。山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては我国唯一の古橋であり、日本三大奇橋(山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋)の1つに数えられている。

また、『神橋』の伝説というものがあって、

神橋2
奈良時代、下野の人沙門勝道は、その伯父・大中臣諸清たちと、かねて深く尊崇する霊峯二荒山(男体山)の登頂によって鎮護国家、人民利益のための大願をたてた。天平神護2年(766年)勝道上人一行は大谷川に辿り着くが、激流のため渡れない。上人は一心に祈念を凝らすと、川の北岸にひとりの神人が現われた。それは夜叉のようで、身の丈一丈余、左手は腰にあんじ、右手に赤と青2匹の蛇をまき、上人に向って「我は深砂大王である。汝を彼の岸に渡すべし」といいながら蛇を放つと、川の対岸とを結び、虹のように橋をつくり、背に山菅が生えたので、上人一行は早速これによって急流を渡ることができたという。振り返ると、神人も蛇橋もすでに消え失せていたので、上人は合掌して、深砂大王の加護に感謝した。それ以来この橋を山菅の蛇橋と呼んだという。

とまあ、そんな伝説は知らなかったけど早速、渡ってみる事にする。

・・・・・・・・・・・・・て、橋を渡るだけでお金を取るのねorz

500円也。

<PM04:00 神橋 Part2>

ここまで来たなら、渡らないともったいないと思い、500円払って鳥居をくぐる。

<PM04:00 神橋 Part3>

さてさて、どんな感じなんだろう。

渡った瞬間、お偉い方の気分に浸れるのかな(笑)

<PM04:00 神橋 Part4>

・・・・・・・・・・・とりあえず、橋の真ん中にある手すりがいらないんですけどorz

これ意味あるのかい?思いっきり景観を損ねてないかい?これはこれでありなのかい?

<PM04:00 神橋 Part4>

このあたりの水は、どこで見ても澄んでいる。

地元の濁った川とついつい比較してしまうよ、まったく(苦笑)

<PM04:00 神橋 Part5>

せっかくだから『神橋』から1枚撮ってみた。

・・・・・・・・・・・・・・び、微妙(汗)

『明智平』からロープウェイに乗って、『華厳滝』を見ようとしたけど、時間がないため断念orz

チェックインが17時にしてあったため、宿に19時くらいになりそうと連絡して、いい加減に飯を食べる店を探す。

まあ、せっかくだから旨いものでも、と友人に探してもらいながら車で散策。

時間が時間だからだろうか、異常な混みようになってきた(汗)

これが紅葉シーズンだったら・・・・・・・・・・。

と考えるとゾッとした(笑)

結局、『栃木和牛』を食べよう!

ってことで、『神橋』の近くで金谷ホテル敷地内にある、『ステーキハウス みはし』に決定。

この車でこの坂上れんのか、なんて不安を抱かせるくらいの急勾配(汗)

殆んど勢いに任せて、何とか上りきり、駐車場へ。

・・・・・・・・・・・・・・ガリガリガリ〜。

駐車場の入り口が、短いけど急な上り坂になっていたため、エアロを装備した愛車は傷物に(泣)

不幸中の幸いか、目立たない箇所に傷が。

いや、それでも凹みますからorz

店に入り、散々迷った挙句、『和風ビフテキ膳』(2940円)にした。

<PM05:30 和風ビフテキ膳>

『栃木和牛』ではないっぽいけど、肉は柔らかいし、ソースもおいしい。

お店の人も感じが良く、満足なお店だった。

夕食にはまだ早い中途半端な時間だったから、店内は空いていた。

ラッキーだったかも。

もう1回来ても良いかな、と思えるお店だった。

駐車場の入り口は何とかしてほしいけどorz

あまりの空腹状態に、急に物を入れたため軽くお腹が痛かったけど、まあ、そこは事後報告みたいな感じで、宿に向けて出発。

鬼怒川温泉にある『彩里の宿 大滝』に泊まるんだけど、温泉街だろうから着く頃には店が閉まっているだろう、と予想。

そんな訳で、途中でお酒や肴を買って再び出発。

予想的中、19時くらいに着いた。

宿が予想以上に、高級感が漂っているんですけど(笑)

素泊まりで7000円くらい。

とりあえず、宿から出てきたおっちゃんが愛想悪すぎ。

思わず笑いそうになっちゃったよ。

外風呂はぬるかったと言っておこう。

ついでに外風呂からの眺めは何もなかったなあorz

2日目は今日見れなかった、『華厳滝』を見て『鬼怒川ライン下り』をして、宇都宮行って『餃子』食べて帰ろうという日程になった(笑)

『鬼怒川ライン下り』は昼近くに予約をしてあるから、その前に『華厳滝』を見るという強行日程(笑)

そのため、2日目は目標6時起床

一日目 二日目

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