京都旅行
2007年〜2008年 年末年始

一日目 二日目

いつもだったら早めに起きだして周辺を散歩するんだけど、今回に限って何故か起きること叶わず、同室の人たちと起床。

外を見ると既に日は出ていた。・・・あっ、日の出を見逃したorz

宿は京都駅から近いため、『京都タワー』がバッチリ見える。網がはってあるけど・・・。自殺防止かなんかですか、これ?

眠い目をこすりながら荷物をまとめ、宿の人にお礼を言って車で『三十三間堂』へ。

『三十三間堂』への訪問は学生時代から数えて、今回で三度目。

一度目はタイムオーバーってことで入ることができなかった。ははは・・・。

二度目は大雪の中、冷え切った廊下を冷え性マックスのかじかむ足を必死に我慢しながらの拝観だったため、のんびりする余裕も無く早足で終わらせ、売店のストーブで暖を取ったという辛い記憶が・・・(泣)ああぁ、おいたわしや、オレ。

で、三度目の今回は朝早すぎて見ること叶わず・・・なんてことはなく、普通に入れた(笑)

寒い事には変わりなかったけど、雪も雨も降っていないため前回よりはじっくり拝観できた。

三十三間堂
正式名は“蓮華王院”。その本堂が“三十三間堂”と通称されている。元は後白河上皇が離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音。
“三十三”という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表す。
東面して南北に伸びるお堂内陣の柱間が“三十三”あるという建築的な特徴により、“間”(けん)とは長さの単位ではなく、柱間の数を表している。
“通し矢”は西側軒下を南北へ矢を射通す競技。中でも一昼夜に南端から北端に射通した矢の数を競う“大矢数”が有名。
江戸時代前期が最盛期で、有力藩の後ろ盾のもと多くの射手が挑戦して記録更新が相次いだ。しかし中期以降、大規模な通し矢競技は行われなくなった。

堂内に入るといきなりの仏像群のお出迎え。

堂内の左右端には今にも動きそうな風神像雷神像。その間に挟まれるように千手観音像を守るように前列に立ちはだかるのは二十八部衆像といわれ千手観音の眷属とされている。

中央に一際目を惹く大きな坐像・千手観音坐像、それを囲むように整然と並ぶ千体の観音立像は圧巻。仏像の森が目の前に広がっているといった感じだろうか。

観音像には会いたい人に似た像があるとも伝えられているけど、そんな知識があった事をすっかり忘れてた(汗)

観音立像だけでなくどの像も圧巻で、精巧に作られ、その技術には脱帽。

やっぱり日本神話や宗教などの知識があればよりいっそう楽しめる(?)だろうなあ、と感じる。

堂内が撮影禁止じゃなかったらもっと良いのになあ。

次は『三十三間堂』を外から観ることに。

<本堂(東側)>

な、なげえ〜。堂内堂外共に圧巻だ。ついでに人まばら。寒いもんね・・・(笑)

東側には“夜泣泉”というものがあり、湧き出す水の音がすすり泣きに似ていることからつけられたらしく、幼児の夜泣き封じにご利益があるとのこと。

<夜泣泉>

突き当たりに行くと、『太閤塀』

し、しまった!内側からだから判りにくい!?

先ほどの堂の反対側、西側で“通し矢”が行われていたらしい。

<本堂(西側)>

これだけ見通しが良いと納得がいく。

次に向かったのは『安井金比羅宮』

安井金比羅宮
崇徳天皇は藤を好み、堂塔を修造して寵妃烏丸殿を住まわせた。崇徳上皇が保元の乱に敗れて讃岐に流された時、烏丸殿は寺中の観音堂に上皇より賜った自筆の御尊影を祀った。
その後、大円法師が御堂に参拝したとき、崇徳上皇が姿を現し往時の盛況を示した。 これを後白河法王に伝え、詔によって建立された光明院観勝寺“”が“安井金比羅宮”の起こりとされている。
“光明院観勝寺”は応仁の乱により荒廃したが、“蓮華光院”が現在の地に移建された時、鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになった。

<安井金比羅宮>

悪縁切りで有名。

突然姿を現すこの異形な毛むくじゃら、いや札むくじゃら(?)の石は。

とまあ、実は過去に来たことあるんだけどね。

<縁切り・縁結びの碑>

これはまず、願い事を身代わりとなる形代(かたしろ)に書き、碑の中央に穴があるので、表から裏へ通って悪縁を切る。それで終わりではなく、今度は裏から表へ通って良縁を結び、最後に形代を碑に貼って祈願する。

で、みんなが見守る中メンバーの一人が我先にと実行。つーか、実行に移したのは唯一人だけだったけど。

・・・実行に移した人の上着も毛むくじゃらだったのはここだけの話し。

有名すぎる『清水寺』へ向かうことに。

『安井金比羅宮』から東大寺通を挟みほぼ正面に『清水寺』へと続く路から行くことにする。狭い路の割には車がたまに通る(汗)

目の前に聳え立つ塔は『法観寺』『八坂の塔』

<八坂の塔>

車が殆んど通らない事もあるのか、この路に入るとガラリと雰囲気が変わる。

その路すがら、奇怪な面を壁一面に広がった芸術家らしい民家?店?が。写真を撮ろうかと思ったけど「写真撮影、1回¥100」なーんて札が下がっていたので、止めた。

商魂たくましい精神だな(笑)

そろそろお腹も空いてきた・・・というか朝食とってないんで、寒さと飢餓でへとへとです。で、『清水寺』へ行く途中に“三年坂”から少し入ったところにある『食堂エンドウ』という店を発見。立て看板が出ていたんで、見つけやすかった。


<食堂エンドウ>

地理的にまぐろを売りにしているのが珍しい。外観はなんとなく良さそう。入ってみるとこじんまりとした店内。つーか、けっこう人がいる。

で、注文したのはまぐろ・・・とは全く関係の無い丼モノ(笑)味もしっかりおいしかった記憶があるなあ。また足を運んでもいいかも、と思わせてくれるお店だった。

元旦という事もあってか、かなりの人ごみを掻き分け『清水寺』に到着。

清水寺
日本でも有数の観音霊場であり、ユネスコ世界遺産に登録されている。
延鎮が、夢で霊泉を訪ねて辿り着いたのが、現在の“清水寺”の建つ“音羽山”。そこには数百年も修行を続けているという行叡居士という修行者(観音の化身ともいう)がいた。行叡は「これから東国へ旅立つので、後を頼む」と去っていった。
延鎮は、行叡が残した霊木に観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが“清水寺”のはじまりとされている。
その後、坂上田村麻呂は妻・高子の病気平癒のために鹿を捕えようとして“音羽山”に入り込んだが、延鎮に出会い殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を寄進したという。
後に征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、蝦夷を平定して都に帰ることができ、延鎮と共に本堂を改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り祀った、という。
また、音羽の滝は音羽の山中より湧出する清泉で、金色水とも延命水ともよばれ、十大名水の筆頭にあげられる。そのため、ここから“清水寺”の名が付いたとも云われている。

<仁王門>

『仁王門』をくぐって、『随求堂』にある“胎内めぐり”へ。ちなみに、ワタクシの記憶が定かならば2度目(笑)

靴をビニール袋へ入れて、数珠の手すりを頼りに前進前進・・・。

ホント、“闇”。笑い声や叫び声がなかったらこの“闇”に浸ることができるんだろうなあ、と考えつつもでも、やっぱりアトラクションに近いところはあるかもなあ、と思ったり思わなかったり・・・。

途中に大随求菩薩を象徴した梵字の“ハラ”を印した随求石が、闇の中にぽつんと朧に浮かび上がっている。

で、この石を廻すと願いが叶うらしいので、新年一発目ってことで廻しといた。今のところ叶ってないです、はい。

・・・ああぁ、あれか、それほど信心深くないからだな(笑)

<三重塔>

『三重塔』を脇目に『本堂』へ進む。

と、なんだか凄い行列が(驚)

『轟門』から『本堂』へ通じる回廊が人で溢れてる(汗)

その先には『出世大黒天』。皆さん必死にお祈りしてた。

他人事のように言いつつも、せっかくだからという事で並んだ。

<出世大黒天>

やっと拝めるところまで来れたよ(汗)

それにしても・・・なんか非常に大きいんですけど、大黒さまが。

細かい事は気にしないで、次は『地主神社』


<左:地主神社 右:恋占いの石>

縁結びで有名だからか、まあ、女性が多いこと多いこと。

あとは、目を閉じて一方の石から向かいにある石まで無事に辿り着くと、恋愛成就の願いが叶うとされる“恋占いの石”も有名かな?

そんな中、メンバーの一人が目を瞑って手で覆うだけでなく、私ずるしてないよ?とばかりにハンカチかタオルか忘れたが、それを使って覆ってもいた。

実行した人は数時間前には『安井金比羅宮』“縁切り・縁結びの碑”をくぐっていたとは口が裂けても言えないけど。

・・・え?結果ですか?見事に向かいの石まで歩いてましたよ。周囲から注目浴びてたけど(笑)

人が多い中、なんとか進んで『奥の院』から『本堂』と『舞台』を・・・。なんだろう、既に見慣れてしまって感慨深さも大して無かった、というのがホンネ。

<『本堂』&『舞台』>

ちなみに「清水の舞台から飛び降りるつもりで」なんて言葉があるけど、『清水寺』の古文書調査によると、実際に飛び降りて助かった確率は“85.4%”。予想以上に高確率で助かっていたらしい。

とはいえ命を懸けたギャンブルは勘弁なんで、もしオレが流行った当時に居たとしても飛び降りないだろうな、きっと(笑)

そろそろ次に行くかあ、みたいな流れになってきたところでふと気がついた。

・・・あ。新年一発目のおみくじをまだ引いていないよ、オレ(汗)

『随求堂』で皆さんおみくじを引いていたけど、何故か惹かれなかったんだよなあ。やっぱり、どうせなら『本堂』で、って気持ちがあったからだと思うけど。

他の人たちには先で待っていてもらい、『本堂』へ一人戻る事に。

・・・なにこれ。どこをどうやって並んでいるのか皆目見当がつかないくらいなんですけど(笑)

順番が来て何の気なしに引いたら・・・“大吉”

ありがたやありがたや。どうってことないことだけど、思わず頬が緩んでしまった(笑)

次の目的地に向かう途中にクレープ屋を発見。八つ橋のクレープだとぅ?興味ありまくりだ!

『本家西尾八ツ橋』『清水坂店』。ここの入り口で軽い行列ができていた。

<八つ橋クレープ>

てことで甘いものには目が無いので購入。うーん、確かに京都ならではって感じのクレープだ。八つ橋とはね。少し前までありそうでなかったな、これは。

で・・・すんごい生クリームに気持ち悪くなったorzおいしいんだけどね。

え?もちろん気持ち悪くなっても完食しましたよ(笑)

それにしても混んでる。混み具合を伝えようと撮ったけど、黄色い人が同じことしてるのに笑った。

お次は坂本龍馬中岡慎太郎桂小五郎こと木戸孝允らが眠っているという『京都霊山護国神社』へ。

京都霊山護国神社
明治天皇から維新を目前に倒れた志士たちの御霊を奉祀するため、京都・東山の霊山の佳域社を創建せよと詔・御沙汰が発せられた。
そのため諸藩が相計らい京都の霊山の山頂にそれぞれの祠宇を建立したのが始まりであり、日本初の招魂社である。
当初の社号を“霊山官祭招魂社”と称し、後に内務大臣布告によって“京都霊山護国神社”と改称。しかし戦後、GHQ占領下においては“京都神社”に改称されていたが、独立後は元の社名に復した。

境内は特に目に付くようなものは無かったかな・・・。神社というより、ここの霊山墓地に坂本龍馬など幕末の志士達の墓が勢揃いしていることのほうが有名みたい。

入場料300円払って階段を少し上ったところに坂本龍馬中岡慎太郎の墓。


<坂本龍馬・中岡慎太郎の墓>

左が坂本龍馬、右が中岡慎太郎の墓。周りには石板にここを訪れた人たちの思いが多数残してあった。直ぐ側に二人並んだ石像の目線は京都市街を眺めているような状態。

奥へ進むと幕末の長州藩の尊王倒幕志士で奇兵隊などを創設した高杉晋作の墓。

<高杉晋作の墓>

他にも維新後、版籍奉還廃藩置県を断行。征韓論征台論に反対し、天皇制絶対主義政治の確立に努めた長州藩士・木戸孝允の墓やその妻・松子のお墓。“禁門の変”“池田屋事件”で犠牲となった者の墓が整然と数多く並んでいる。

そんな時に雪が舞ってきた。うーん、雰囲気良すぎですがな。・・・まあ、正直、そんな雰囲気よりは寒い!っていう思いのほうが強かったけど。

車に戻って、次は『金閣寺』。いつもバスで移動だったから、車で寺社を訪れることが少し新鮮に感じた。

激混みって訳じゃないけど、駐車場がけっこう埋まってる。

そして外は鬼のように寒いorz

金閣寺
正式名称“鹿苑寺”、通称“金閣寺”は中心となる建築物である舎利殿を「金閣」、寺院全体を“金閣寺”と呼ぶところからきている。
そもそもは藤原公経(西園寺公経)がこの地に“西園寺”を建立したことが始まり。鎌倉幕府滅亡後、荒れ果てた“西園寺”を足利義満が譲り受け、「北山殿(北山第)」と呼ばれる大規模な邸宅を造営。
その後、足利義満の遺言により“禅寺”とされ、義満の法号「鹿苑院」から“鹿苑寺”と名付けられた。

『総門』をくぐり、今までは気にも留めなかった『舟形石』を立ち止まって少し眺めてみる・・・さ、次次。

<舟形石>

受付で拝観料を払い、何度観た事か『金閣』を目の当たりにする。

<金閣(舎利殿)>

『鏡湖池』『金閣』は最早セットだな。どちらか一方でも欠けたら味気なく映りそうだ。

順路に沿って進むと、『善峯寺』“遊龍の松”『宝泉院』“五葉の松”と共に京都三松と云われ、さらに足利義満手植えと伝えられる“陸舟の松”

<陸舟の松>

小高いところにひっそりと佇んでいる『夕佳亭』

<夕佳亭>

数奇屋造りの茶席で、その名の通り夕日に映える金閣が殊(こと)に佳(よく)いということから付けられたらしい。

茶所を過ぎると見えてくるのが『不動堂』

<不動堂>

弘法大師が造ったとされている石不動明王が祀られている。

近くに売店がありけっこうな賑わいを見せていた。『不動堂』の右側には出口があり、左側には数多くの祈願成就のろうそくがあったので、ひろーい範囲でご利益がありそうな“心願成就”を購入して火を灯して願っておいた。何を?ははは・・・なんでしょうね(笑)?

雪が思い出したかのように降る気温の中、最後にお土産を買って帰ろうという事になったので、『新京極』で各自一時解散してお土産購入任務に付くことに。

年始という事もあってか少し路を外れると一軒も店が開いてなかったり、大通りでも既に閉まっているところがちらほらと・・・。

そりゃあ、年明け早々から働きたくはないですよねえ(笑)

夕飯はどこぞのデパートのレストラン街で取って、帰路へ。

夕飯はこれといってとりわけ名物でもなんでもない定食だったけど、美味しく頂けた。歩き疲れてたし、腹減ってたからなあ。

帰りの高速は滋賀県に入ったとたん大雪に見舞われた。

まさかの事態だったんでノーマルタイヤでゆっくり進んだ。渋滞になっていたのが不幸中の幸いか(汗)

まあ、その時オレは運転しなかったんですけど・・・なにか?

夜中に地元の駅で降ろしてもらって、原チャリで帰宅。

車を出してくれた方、尚且つ運転してくれた方、長旅ご苦労様でした&ありがとうございましたm(_ _)m

今回も大いに楽しませてもらった。ただ、激しい運動とかはしていないのに旅行から帰った次の日には足が筋肉痛orz

あ、ありえねー(笑)

おわり

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