京都旅行
2007年〜2008年 年末年始

一日目 二日目

時は西暦2007年12月30日23時。

つい一ヶ月前に行ったばかりだが、年末年始の京都へGO。

年末年始を京都で過ごすのは人生2回目。

・・・どんだけ京都が好きなんだ、オレは(笑)

まあ、住みたいほど好きじゃないけど神社仏閣は好きなんだなあ、と実感したりした。

横浜駅に31日の1時(確か)に集合とのことなので、上り電車が無くなる前に少し早めに家を出る。

二日間放置するのは不安だったけど、原チャリで自宅の最寄り駅まで行くことにした。

終電で横浜駅に到着するも時間が余ったので、喫茶店へ・・・行こうにも開いているわけがないので、マックで時間稼ぎ(汗)

時間が来たので集合場所に行き、メンバーが集まったので車2台でいざ出発!

既に見慣れた光景の高速の景色を横目にしながら順調に進み、途中のSAで恐ろしく早い朝食を挟み、再び出発。

予想通り朝方、京都に着いて、まずは『伏見稲荷大社』から攻めることに。

歩いて数分の駐車場に車を止め、行ってみるとまばらながらも既に人がいた。

皆さん行動時間が早いですね(汗)

まだお店が開いていない時間に表参道の『楼門』から『稲荷山』へ。

伏見稲荷大社
稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮。稲荷山の麓に本殿があり、稲荷山全体が神域となる。
稲荷は稲生りからきている。伊呂具秦公が餅を的にして矢を射た時、餅が白い鳥と変化して飛んでいき、とまった山の峰に稲が生じた。そのことから稲生り(いねなり)が転じて“イナリ”となり“稲荷”になったとか。
そのため稲荷神が農業の神であるので、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益がある。
また、伊侶具秦公が勅命を受けて伊奈利山三ヶ峯(稲荷山)に三柱の神を祀ったことに始まる。
鳥居を奉納する習わしは江戸時代に始まっており、何故お稲荷さんに鳥居が多いかというと、願い事が“通る”“通った”御礼の意味から、鳥居を奉納する習慣が広がったからとの事。

ちなみに『楼門』の左の狐は法具らしきものを咥えていた。

学生の頃とかに来た時は気がつかなかったなあ(汗)

“稲荷大神”の眷属(使い)は“きつね”だから“狛犬”ではないないと、改めて実感。


<本殿>

『本殿』を通過して、ご存知の『千本鳥居』・・・をくぐる前に『千本鳥居』の脇に作り物の馬が鎮座されていた。

<馬神>

と、旅のお供のお一人が、

これは何のためにここにあるの?

と、このHPに寺社に関することを載せているため、詳しいと激しく勘違いをしたのかもしれない。

もちろん(?)詳しい訳がないし、何のためにあるのか解らないので、

・・・さあ?何でしょう。

と一言。・・・なんかオレが地雷を踏んだ雰囲気に一瞬なりかけたが、次々(汗)

ちなみにこのよく解らんお馬さんは、

馬神
馬神の社馬の神様で馬乗りが上達するようにお願いする

そうです。

それにしても見事なまでの鳥居。裏を見てしまうと企業名が記されてあって、雰囲気ぶち壊しだけど・・・。

<千本鳥居>

んんん?

1つの鳥居に目がとまった。まあ、正確には鳥居に記されている企業名に・・・。

なんか見たことあるなあ、と思ったらうちの会社の取引相手orz

ふふふっ、こんなところで仕事を刹那でも思い出させてくれるとはね。恐るべし、『伏見稲荷大社』

鳥居が一度途切れた広場、『奥社奉拝所』で地図を発見。

さて、どこまで行こうか、という事になりよ〜く地図を見ると『四ツ辻』なるところを発見。

あー、やっべーすっげー興味がある。

その場で、実は旅行前日に『朝霧の巫女』を読んだばかりで作中に『四ツ辻』が出ていたから行きたいです!

・・・とは口が裂けてもいえないので、大いに省略して『四ツ辻』に興味があるんでそこまで行きませんか?と提案して、とりあえず『四ツ辻』まで行くことに決まった(笑)

“熊鷹大神”の御塚が鎮まっているという『新池』へ目指す道中に異様な数の鳥居やら社やらの奇妙な光景に出くわした。

のんびりと歩きながら『新池』に到着。

<新池>

・・・なんだかなあ、て感じでこれといって心惹かれるものがなかった(笑)

さらに上を目指すと、『三ツ辻』なるものが。

<三ツ辻>

ま、簡単に言ってしまうとT字路。

なんだかごちゃごちゃしていて、しかも粗末に感じたのはオレだけですかね?

ガッカリしながら階段を上りに上ると開けた場所に出た。

<四ツ辻>

これが『四ツ辻』かあorz

『四ツ辻』

四ツ辻
異界の入り口であり、異界と交わるところ

なので、そうやって無理やり自分を納得させるとちょっと感動(笑)

あー、でもなんだろね、これ。

ここも『三ツ辻』同様の扱いの印象を受けるんですけど・・・。

で、『四ツ辻』から振り返ると・・・・・・。

おぉー。これは見事な景観だ。

寒い中ゼエゼエいいながら上ってきた甲斐があったものだ、うんうん。

とまあ、まだまだ先があるのだけれど、諸事情ってことでここで『稲荷山』から下山する事に。

と、ごちゃごちゃとした開けたところに出た。ここはお山参詣の重要な経路であったらしく『御幸奉拝所』というところ。

<御幸奉拝所>

楽しい旅行になりますようにと、とりあえず拝んとく( ̄人 ̄)

さらに下山をしていくと歩道といってもいいくらいの細道を軽が前からぐいぐい上ってきた!?

エンジンが悲鳴を上げているように聞こえるのは気のせいですよね?

路面が凍った時はどうするんだろう、何て話しながら下って行くと、高級住宅街に出た。

いや、もうね、一軒一軒しっかり見ながら歩きましたよ。こんな家に住みたいなあとか、オレだったらこういう風にしてるなあとか・・・トリップしながら。

格差社会が目の前に広がっている!って実感したね。

で、現実に返ってくると目の前には『東福寺』・・・の裏側(笑)

<三門>

ま、そんな訳で画像も『三門』なんだけどorz

東福寺
京都五山の第四位の禅寺。中世から近世を通じて栄えた。明治の廃仏毀釈で規模が縮小されたとはいえ、今なお25か寺の塔頭を有する大寺院。
由来は奈良で最大の寺院“東大寺”と、やはり奈良で隆盛を極めた“興福寺”の二大寺から“東”と“福”、1字ずつ取って“東福寺”とした。

正面からの画像はどうしたかって?撮り忘れましたorz

ついでといっては何だけど、『本殿』も・・・フ、フフフ。

もう笑うしかないわけですよ、こればっかりは。

それにしても見事な大きさで圧巻される。

『通天橋』へ向かうと拝観料を払う受付のおばちゃんがまだ準備中だったけど、ありがたいことに少し早めに受付を開始してくれた。

<歩廊内部>

ここを訪れるのは何度目だろう。四季折々、さらには時間帯によって違った一面を見せてくれる。

<通天橋>

先ほど歩いてきた『通天橋』を見上げる形に。冬は木々に色づく要素がないから寂しく感じる。まあ、それも冬の特徴か・・・。

しばらくぶらぶら歩くと苔の絨毯発見しました!ってことで1枚。

今度は奥にある『開山堂』のほうへ。


<開山堂庭園>

左画像にある池がものの見事に凍っておりますよ。寒いわけですよ、はい。

右画像は“枯山水”市松の砂紋をつけているところ。珍しいものが見れて面白い。しかもこの寒い中あんな薄着で、じみーな作業。だけど神経を使いそう。ご苦労様ですm(_ _)m

とりあえず宿泊先にチェックインしておこう、てことで歩きながら戻るもなぜか線路に出た。・・・ホワイ?

線路沿いのところにはなにやらバラックらしき建物が。・・・どこ、ここ?

うねうね歩いて結局、1、2駅間を電車で戻って車のところへ。

宿泊先に荷物と車を置いて再び観光。・・・ホテル名忘れましたorz

まずは『永観堂』

永観堂
由来は非常に優れた徳の高い第7代目住職・永観律師の“永観”から永観堂と呼ばれるようになった。永観律師は貧しい人々に非常に親切に施しをしたところから、貧しい人々が永観律師を非常に親しみをもって向かえたとか。
一般には永観堂で知られるが、正式名称・禅林寺は、浄土宗西山禅林寺派総本山の寺院。また、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つで、古くから学問(論義)が盛んな場でもある。


<永観堂>

『総門』『中門』をくぐり、『大玄関』で拝観料を払って建物内部へ。

<大玄関>

回廊を進んで行くと、まず目に付いたのは“三鈷の松”葉が長く、しかも3本であるためこれを持っていると3つの福が備わるといわれているらしいけど・・・。家に着く頃には見るも無残な形になってしまうだろうと思い手に取っただけで先へ進んだ。

『本堂』には首を左に振り返る阿弥陀如来仏で“みかえり阿弥陀”が。ただ、撮影禁止なため画像無しorz

『臥龍廊』から『開山堂』へ進み、靴に履き替え石段を上って行くと『多宝塔』がある。小高い場所にあるので京都市内が眺望できる。非っっっ常〜に寒いけど。

ものの見事なくらいに写真に収めなかったなあ。寒さと空腹でそんな気力がなかったかもしれない(笑)

“秋はもみじの永観堂”と紅葉で有名な『永観堂』だけど、閑散とした感じの冬もアリだった。

次はどうするか。この何とも言えない空腹感を無くすために昼食をとるか・・・。店を探しながら『南禅寺』方面へ移動。

で、着いた。・・・『南禅寺』に(笑)

南禅寺
臨済宗南禅寺派大本山の寺院であり、“京都五山”とは別格扱いの寺院で、日本の“禅寺”で最も高い格式を誇る。さらに皇室の発願になる“禅寺”としては日本初。
“南禅寺”建立以前、この地には後嵯峨天皇が造営した離宮・禅林寺殿があった。この離宮は“上の御所”と“下の御所”に分かれ、“上の御所”に建設された持仏堂を“南禅院”と称した。
現存する“南禅寺”の塔頭、“南禅寺”はその後身である。開山の無関の死去に伴い、“南禅寺”伽藍の建設は実質的には二世住職・規庵祖円が指揮し、寺観が整った。当初の“龍安山禅林禅寺”を“太平興国南禅禅寺”と改めたのは正安年間(1299〜1302年)のこと。
また、後醍醐天皇は“南禅寺”を“京都五山”の第一としたが、足利義満は自らの建立した“相国寺”を五山の第一とするために“南禅寺”を“別格”として五山の上に位置づけた。

こうなったらしょうがない、『南禅寺』を拝観することに。


<三門>

『三門』をくぐり、さらに真っ直ぐ伸びた参道の先には『法堂』がずっしりと構えていた。

<法堂>

次はドラマなどに使われている『水路閣』

<水路閣>

境内に洋風の建築物。うーん、和洋折衷って感じ。

<水路閣(上)>

『水路閣』の上はこんな感じ。思っている以上に水の流れが速い。

<水路閣(下)>

ははは。考える事はみんな一緒というわけか(笑)

反対側からも見知らぬどなたかが撮っていた。

この時、お互い考えている事は一緒だろうなあ。

・・・頼むから退いてくれ、と(笑)

『小方丈』『大玄関』


<大玄関>

短い参道ながらも綺麗に敷き詰められた石畳は思わず見入ってしまう。

『小方丈』の中に入れるらしいけど、何度もここを訪れているけど1度も入った事ないなあ、そういえば。

ちなみに、左画像は格子越しからの『大玄関』への石畳。

そろそろ『南禅寺』から退散てことで、その道すがらこんな看板を発見。

あとで知ったけど、ここは『塔頭南陽院』というところで普段は入れないらしい。それにしても“拝観謝絶”って。初めて見たよ(笑)

さてさて、昼食をどうするかってことになり、『銀閣寺』の方に行けばお店もあるだろうということで『哲学の道』を利用して向かうことに。

<哲学の道>

『哲学の道』を通るのは実は初めてです、はい。

看板を見ると・・・何々?

えーと、1.8キロの散策路で四季折々を楽しめると。空腹時に1.8キロとは・・・苦行としか思えないんですけど(汗)

実際に歩いてみると・・・なんか微妙だった。まあ、空腹と寒さで余裕がないってことが大きな原因だと思うけど(笑)

漸く『銀閣寺』の看板が出てきた。・・・もう限界です。

予想通り、というか以前も大雪の年末年始の京都を訪れた時、『銀閣寺』にも行っていたので分かってはいたけど店が多くあって安心した!

所狭しと軒を連ねている参道入り口辺りの店で漸く昼食にありつけた。店の名前は忘れてしまったけどorz

・・・親子丼じゃなかった気がするなあ。肉が鴨だったはず!・・・たしか。

とまあ、ここで一息入れていざ『銀閣寺』へ。

銀閣寺
“銀閣寺”は一般的な呼ばれ方で、正しくは“東山慈照寺”。
室町幕府足利八代将軍義政が隠栖生活を過ごすために山荘造営を発案、そして造営されたのが山荘東山殿。これが元となっている。義政没後、臨済禅宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで“慈照寺”と名付けられた。
“銀閣寺”の由来は江戸時代、三代将軍義満の造営による山荘北山殿の“金閣寺(鹿苑寺)”に対し、“銀閣寺”と称せられることとなった。

『総門』から『中門』へと続く竹垣に囲まれた参道・『銀閣寺垣』を抜けると銀世界。

こうも人がいると“わびさび”もあったものじゃないけど(笑)右画像は『銀沙灘』『向月台』。左は・・・なんだか綺麗に整えられていたんで写真に収めてみた(汗)

ガヤガヤしている中進んで行くと、小さな滝が見えてきた。

その滝・『洗月泉』の隣に苔の群れ・・・というより苔の斜面が(笑)滝よりこちらに目が移ってしまった。

先に進むと『坐禅石』『白鶴島』などがある池越しに『東求堂』が見える。

<東求堂>

『東求堂』“持仏堂”、つまり“阿弥陀如来”を祀る“阿弥陀堂”らしい。

路なりに進み小高くなったところまで上って行くと、一望できる。

・・・うーん、色々と写るべきモノが木々に隠れてしまっているのはどうしたことかorz

路を下りて行くと人でごった返してる。うそん。

ま、そこはそれ。隙をついて身体を入れて撮影場所を確保。こういう時は多少のふてぶてしさがないとね、ダメだよね、うん。

<観音殿 銀閣>

戦場を掻い潜った結果が上の画像。

やっぱり雪化粧されたほうが風情があったし、個人的に好きかな。

で、どうやら他のメンバーとはぐれてしまい、『総門』前で待っていると一人と合流。

・・・あれ?他の人はどうしたんですか?と聞くと「さあ?私もはぐれた」とのこと。

敷地内の休憩所にいるんだろうということでこちらも休憩を取る事に。

行きに気になった『総門』前にある『銀閣寺しゅー』という店にふらふらーっと足が勝手に動き、気付いたらシュークリームを食べていた!・・・いや、写真を撮り忘れてしまったので画像はないけど、おいしかったです。一個300円くらい。

皆さんが出てきたところで時間を見ると・・・!

あれ?これやばいんじゃ・・・。拝観時間って大抵4時とか5時で終わらなかったっけ。

個人的には今回の旅行で1番といっても過言ではない『相国寺』“鳴き龍”を見たいわけなんですが・・・。

えーと、内心焦ってきました。あれ?もしかして、ここまで来て見ることも聴くこともできないのか?っと。

バスが思い通りに来なかったので、タクシー拾ってゴー!!

あー、門が見えたよ。間に合うかもだよ。・・・。

ちょ、あ、あれ?いいのか、これ?

<相国寺>

ありがたいことに『総門』前で停まるかと思いきやスルーして境内の奥まで(笑)

相国寺
足利義満が国家安泰を祈願する官寺として創建。約10年を費やして完成した一大“禅寺”。
春屋妙葩(しゅんおくみょうは(無窓疎石の甥))が実質の開山に当たったが、師の無窓疎石を開山とすることを請願、自らは第二世住持となった。
“京都五山”の第2位に位置する夢窓派の中心禅林で、室町時代の禅文化の興隆に貢献。現在は“金閣”・“銀閣”両寺をはじめ九十余寺を数える末寺を擁する臨済宗相国寺派の大本山である。

『相国寺』“鳴き龍”があること以外、調べてこなかったのでどこにあるのかさっぱり。時間も時間だったので軽くテンパった(笑)

誰もいないので庫裏の『香積院』の扉を開いて、

「すみませーん。誰かいませんかー」

と声を上げてみたらお坊さんらしき人が不審な眼差しを向けながら出てきた。まあ、閑散として拝観客は殆んどいない時間帯に突然閉まっている扉を開けて大声出してきたら不審に思うわな。

で、“鳴き龍”ってどこにあるんですか?と聞いたら、この時期は観ることはできないとのこと(;・∀・)ハッ?

へ、へー。ソーナンダー・・・。

どうやら期間限定の拝観らしく、それに関する看板も発見。なんのためタクシー使ってここまできたんだ(泣)

<法堂>

ちなみに“鳴き龍”『法堂』にあるとあとで知った・・・。

はあー、やってらんねー。

気を取り直して、確かこの辺りに『一条戻橋』があることに気がついた。

寒さと疲労で歩くのも億劫な身体を叱咤して到着。

一条戻橋
紀州熊野で修行に励んでいた三善清行の子・浄蔵に清行危篤の報せが届く。 浄蔵は、なんとか父が生きている間に会って話がしたいと、急ぐが京へ着いた頃には清行は亡くなっており、 一条通の堀川に架かる橋で父の葬列に出くわした。浄蔵は嘆き、「もう一度話がしたい」と願いを込めて祈祷すると、清行が蘇った。 以降この橋を死んだ人も生き返るという意味から “戻り橋”と呼ぶようになった。

<一条戻橋>

ここは前々から一度は来てみたかったところ。注意深くしていないとうっかり通り過ぎてしまいそうなくらい、ぱっと見普通の橋。

鬼の腕や晴明式神など興味深くも面白い逸話が残っている。

とまあ、ちょっとしたミステリースポットとしても有名か。

さらには嫁入りした女性が橋の名の通り、戻ってきてしまうなどから嫁入り前の女性は通らない習慣があるみたい。

この『一条戻橋』からそれほど遠くないところに『晴明神社』

<晴明神社>

晴明神社
“一条戻橋”のたもとにあった晴明の屋敷跡に鎮座する。
晴明の亡き後、一条天皇は晴明の遺業から稲荷神の生まれ変わりであるとし、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建。当地の社地は広大であったが、戦火や豊臣秀吉の都市整備などで縮小し、社殿も荒れ放題の惨状。
そのため幕末以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、以後境内が拡大され、現在に至る。

既に下火になっているけど、一時は映画、コミック、小説など一大ブームとなった、あ・の『晴明神社』ですよ。今更だけど初めて足を踏み入れた(笑)・・・それにしても画像が暗いな(汗)加工し忘れた。

で、『一の鳥居』をくぐるとディ○ニーに出てきそうな像が一体。

<式神像>

『一条戻橋』“式神”を封じた事からこの像を置いてあるんだろうけど、ははは。なんだか興を削がれるんですけど(笑)

<一条戻橋(ミニチュア)>

その“式神”像の隣には平生7年以前に実際に使われていた親柱でミニチュアを再現された『一条戻橋』。とりあえず渡っときました、はい。

道路を渡って『二の鳥居』をくぐると、“天地五行”(木火土金水)を象徴した“五芒星”をあしらった井戸らしきものが。

<晴明井>

これは病気平癒とされる水で、千利休が茶の湯に使ったとも云われているらしい。

・・・え?私めですか?飲みませんでした。

<本殿>

『本殿』で参拝。

『本殿』左側には『厄除桃』(画像左)。なにはともあれ撫でておく!『本殿』右手前には『御神木』(画像右)。

グッズなどを売っている店が境内や歩いて数秒の場所にあるので、ひやかしで見てみると、解っちゃいたけど・・・胡散臭くなるなあ。こういうのが置いてあると(笑)

そろそろ神奈川から向かってくるメンバーが京都駅に来るので移動。バスに乗ったとたん疲れがドットきたのか眠い・・・。

京都駅の新幹線改札から出てくるので、その前に下準備。

で、プラカードのごとく一言記したスケブを掲げて、改札出口のど真ん中でお出迎えすることに。

ああぁ〜、なんて書いてあったか忘れてしまったyo!まあ、改札から出てくる人や歩いている人が何事かとジロジロ見ていたことと、空港じゃあるまいしプラカードを持っているなんて、オレ無理です、はい。

紙を持っている人以外は物陰に隠れて様子見状態。

数十分その状態が続いて、合流する人が漸く来たと思ったら、改札から出ずに紙を持った人をとりあえず1枚って感じで写真に収めてた(笑)れ、冷静だ・・・。

えーと、紙を持っていたSさん、楽しいひと時をありがとうございました。大いに笑わせて貰いました。

一旦、荷物を置いて少し休もう、という事で宿泊先の部屋で休憩を挟んで、夜の京都へ・・・。

『八坂神社』へタクシーで行きとりあえず様子見って感じで軽く外観を見て、今度は歩いて『先斗町』へ移動して夕食に。

以前来た時に比べると、妙に道が空いているように感じたのでタクシーの運転手さんに聞くと案の定、人が例年に比べると少ないらしい。というより徐々に減ってきているとか。

えー、話し変わって京都旅行・・・というか旅行で1日に2回もタクシー使ったのは初めてでございます。さらには『先斗町』には1度も来たことないので凄く新鮮。ちなみに『先斗町』は“ぽんとちょう”と読む。

<先斗町>

ここは、鴨川にそった細長い通りのことで、著名な花街の一つ。情緒たっぷりの雰囲気が凄く良かったなあ。

そんな良い雰囲気の中、居酒屋に入ろうにもどこも混んでたけど、一軒の居酒屋に入ることができたので、そのまま食事。店名を忘れてしまったけど、料理はおいしかった。

『四条通』に出ると人が少なくなっているとはいえ、まあ混んでること混んでること。人人混みを軽やか(?)に進んで、目当ての『八坂神社』到着。

八坂神社
素戔嗚尊を祭神とする全国各地にある神社の名称で、総本社は京都。
神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、元々“祇園社”“祇園感神院”と呼ばれていたのが“八坂神社”と改められた。
また、高句麗の伊利之使主が新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、“八坂造”の姓を賜ったのに始まるとされる。
創建についての諸説はいくつかあるが、祭神は古くから牛頭天王(およびそれに習合した素戔嗚尊)であったことは確実である。

<八坂神社 西楼門>

『西楼門』『吉兆縄』を大量に抱えた兄ちゃんから購入。

<吉兆縄>

『吉兆縄』は新年の無病息災を願う“おけら詣り”に使用するもの。

境内にある灯籠にキク科の薬草“おけら”が燃やされているので、『吉兆縄』の先端に火を移す。

これがまた、近づかないと火を移せないので顔が熱いの何の(汗)

<灯籠>

で移したら消えないように回す回す・・・。

観光客らしき人が『吉兆縄』を回している我々観光客を写真に撮っていた。観光客が観光客を撮るっていうのはなんだか奇妙な構図だった・・・(笑)

消えないように回しながら家に持ち帰って、その火・“おけら火”を雑煮の火種にすると1年を健康に過ごせる。

・・・んが、家は全て遠き理想郷神奈川なので後で消火活動(汗)

『吉兆縄』を回しながら祇園を徘徊。少し人が多いけど雰囲気がガラリと変わるなあ、ここは。『花見小路』からさらに1本外れると人いないし(笑)サイコーです。

<祇園>

で、徘徊していると京都に来たら必ずといっていいほど立ち寄る『cafe牛若丸』発見。

<cafe牛若丸>

もちろん購入してパクついた。値段として高いか安いかって言われると若干高めなんだろうけど、それは場所が場所だけに仕方ないんだろうな。

それにしても何度か足を運んだ事があるけど、未だに店内で食べた事はない(笑)

ここで“おけら火”の消火活動をしてタクシー拾って宿泊先へ・・・。あー、もしかしなくても家に帰る前に火を消してしまうのって、やっぱり意味無し!?と、今更ながらにして思ったり・・・。

宿泊先に着いて年越し蕎麦を!てことで、某ネコ型ロボットの如くどこからともなく御椀と箸とカセットコンロとetc.(笑)旅先の部屋で蕎麦煮て食べるなんて初めてで驚きっぱなし。いやはや、ありがとうございました。大変美味しかったです。

新年になり、1年の抱負なんてものを語りつつお酒を飲みつつTVを観つつ夜も更けたということで就寝・・・。

一日目 二日目

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