築地〜浅草
2007年4月

友人に「築地行かない?」なんて誘われた。計4名での築地&浅草見物。

今回で築地に行くのは3回目。有名なだけあってやはり美味しいし、ごみごみしたところは嫌いじゃないから参加表明を発表しました。

2007年4月某日。

集合時間はAM8:30に築地・・・・・。

前回も前々回ももっと早く行かないと美味しいところは並ばないとなかなか店に入れないため自分は始発に近い電車でいざ築地へ!!

・・・・・・なんで一人だけかって?

並ばずに美味しいものを食べたいから!!

そんなこんなでAM6:30、築地着。

こんな朝早くでも賑わっていた。

<AM6:30 築地場内>

とてもじゃないけど土曜の朝6時半とは思えない・・・・。

さてさて、これからどーしよ。

特に下調べなしで来てしまったためどこのお店に行ったらよいのかさっぱり。

しかし!今回で3回目ということもあり、まず目指すべき場所が何処なのかは大体自分の中で考えている。

そんなわけで、

「まずは場外ではなく場内から攻めるとしますか。」

と一人でブツブツ言いながらいざ突貫!!

で、待ち時間がほとんどない状態で 仲家 へ入店。

<AM7:00 仲家での食事後 入店時よりも人が増えていた>

ここは丼物で有名なのか目に付くのはほとんどが丼物でした。

朝飯に逝っとくか!ということで、 とろ、うに、なかおち丼を注文。丼ぶりだけだと思いきや味噌汁、漬物、小鉢(サラダ(?))が付いて1500円くらい(記憶が定かでなくてすみません)。

とにかくおいしく、ボリューム満点。大満足の朝飯だった。

・・・・ちなみに写真撮影は禁止とのこと。残念。

「これから1時間半どうしよ・・・・。」

と途方に暮れていると友人二人から連絡。

遅れます。

・・・・・なんじゃそりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!

さらに途方に暮れてしまっていると、もう一人から予定通りの時間に着くとの連絡が。

少しホッとする。

1時間半もあるためどうやって時間を潰そうかと考えると、

「築地は何も食だけじゃない!」

と勝手に解釈し、一服入れてからいざ行動!

まずは前から少しばかり気になっていた波除稲荷神社へ行ってみる。

波除稲荷神社
明暦の大火の後に埋立工事の困難を極めたのが、築地海面。なぜなら堤防を築いても激波にさらわれていたのが理由らしい。
ある夜、海に光りを帯びたものがあり、船を出すとそれは稲荷大神の御神体であったという。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、盛大なお祭をした。
それからは波風がおさまり、工事は進み埋立も無事に終わったとのこと。

<AM7:20 波除稲荷神社入り口>

人がいないない。場内場外の喧騒が嘘のよう。

ちらほらと地元の人や漁師らしい人、お店を構えていそうな感じの人が参拝してたけど。

境内には、

<AM7:20 左:お歯黒獅子 右:玉子塚> 文字通りお歯黒された獅子と玉子の塚・・・・・。

<AM7:20 波除稲荷神社 厄除天井大獅子>
でけ〜・・・・・・。

なんて他にも 「すし塚」「海老塚」 などなど、オレが持っていた神社の常識を覆しかねないくらい斬新な獅子や塚が祀られていた。

正直、吹いた!(←不謹慎

その後、優柔不断をフルに発揮してグダグダと15分ほどさまよい、

「そーいえば、前々から気になっていた築地本願寺に行ってみようか・・・・・。」

と言うことで目的地が決まれば後は実行に移すのみ。

<AM7:50 築地本願寺>

正式名所は浄土真宗本願寺派本願寺築地別院と言うらしい。

築地本願寺
元和三(一六一七)年、西本願寺の別院として准如上人によって建立。
浅草近くの横山町にあったため
江戸浅草御坊と呼ばれていたが、明暦三(一六五七)年、振袖火事で焼失。その後、幕府の区画整理のため、旧地への再建が許されなかったため、替え地とされたのが八丁堀の海上だった。
そこで佃島の門徒たちが、本堂再建のため海を埋め立て、土地を築き、延宝七(一六七九)年に再建し
築地御坊と呼ばれる。
後に、関東大震災で崩壊した本堂の再建は古代インド様式で昭和六(一九三一)年に起工、三年後に落成され今に至る。

実際に訪れてみると、観光客らしき人は見当たらない。ていうか自分が場違いのような気になってきたがそんなことはお構いなし。

せっかくここまで来たから中も覗かせて頂こう。

で入ってみるとまばらに人が居たが、想像していたのとかなり違う・・・・・。

早々に撤収。

今度は築地場内へ移動。

ここでもまたブラブラ歩き、たまたま目に付いた場内にある魚河岸水神社へ。

<AM8:15 魚河岸水神社>


魚河岸水神社
日本橋魚市場が始まったころ大漁や海上安全、徳川家の安泰を祈願して、森一族が大市場交易神と称し、道三海岸(大手町辺)に建立。
慶長年間に神田明神社と共に神田台に遷座、後に神田神社内境内に社殿を新築し、明治三十四年
魚河岸水神社と社名改称された。
祭神は
弥都波能売神(ミズハノメノミコト)とされている。

場内にひっそりとたたずんでおり、こじんまりとした神社でいざ境内へ。

狛犬が二体とも真っ黒でなぜか灰皿と小さなベンチが設置されていた。

「これはこれで面白いな」

と一人ごちてみる。そうこうしている内に一人の友人から連絡が入り、合流。

予想通り朝食がまだとのことなので、又こい家まぐろ一本丼を食す。

<AM8:45 又こい家 マグロ一本丼 ¥1450>

時間をあまり空けずに2回目の朝食、しかもまたもや丼・・・・・・。

しかし、まだ胃は快調なため完食。

やはり、新鮮なだけあって大変おいしい。味噌汁も美味!ごちそうさまです。

そして、9時少し過ぎにもう一人と合流。正直、マグロで丼系はもう・・・・・・。

そんなこんなで次に向かったのは、寿司大

<AM9:30 寿司大>

すさまじい行列。2食分を消化するのには別に苦にならなそうだ。と思い最後尾へ並ぶ。

で列の整理のため店員さんがやってきたのでどのくらい待つか聞いてみると

店員「だいたい2時間くらいですかね〜」

オレ「・・・・・・・・・。」

並んでいる時の10時過ぎに最後の一人と合流。

で、11:30

ホントに2時間も待つとは。飯食うためにここまで並んだことは人生で初かもしれない。

3人ともお腹が空いているのかおまかせ寿司を注文。

自分は結構お腹いっぱいだったため上寿司を注文。

とほほ・・・・・・(泣)。

おまかせ寿司に比べるとネタも何もかも下がってしまうが、やはりおいしいものはおいしかった。口の中でとろけます、はい。

その後は、築地場外をブラブラ歩きそのまま「浜離宮」へ。

<PM2:30 浜離宮>

天気は曇ったり晴れたりで、雨が降らないだけでもかなりましな状況だった。

のどかな風景にビルが生えているような渾然一体となっているこの景色がなんとも不自然な感じを受けた。

こういうのも東京らしい風景なのかなと自分を納得させた。

しかし、桜はまだ散ることなく咲き誇り菜の花も満開、春らしい甘い匂いが漂い落ち着く。

15:30ころに浅草方面へ行く水上バス浜離宮から出ているので乗船する。

<PM4:00 水上バス デッキ>

隅田川を使って約30分かけて浅草に到着。

曇っていて、夕方だったためデッキは寒かったが風を浴びながら隅田川を上っていくのはなんとも心地よい感じがした。

おっちゃんがカモメに餌をあげまっくていたため、一時カモメだらけになりましたが・・・・・・。

水上バスから降り、いざ浅草寺へ。

<PM4:15 雷門>


浅草寺
推古天皇36(628)年。隅田川に投網漁をしていた漁師の網に一体の仏像がかかった。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、自宅を寺としてその観音像を奉安し、礼拝供養に勤めた。これが浅草寺のはじまり。
大化元(645)年、勝海上人がこの地に留まり観音堂を建立、さらに夢告によりご本尊は秘仏と定められ武蔵国の観音信仰の中心地となる。また金龍山浅草寺は平安期には大寺の伽藍を武蔵野の一漁村に構えていたことが判った。
平安期はじめ、慈覚大師の巡拝により伽藍の整備が行われ、その後一層信者の層も厚くなった。以来、慈覚大師を中興開山と呼んでいる。
鎌倉期以降は将軍自ら帰依するに及び、名将たちの篤い信仰を集め観音霊場として知られるようになった。
江戸時代、天海僧正の進言もあり、徳川幕府の祈願所と定められ、江戸の信仰と文化の中心として庶民に親しまれ、以後の隆盛をみるようになった。

さすがに有名なだけあっていきなりの人ごみ。

雷門
雷門」の正式名所は向かって右に風神像、左に雷神像を安置することから「風雷神門

久しぶりの浅草なんで少しワクワクする。

まずは仲見世通りから楽しむ。串団子揚げ饅頭なんかを食べ歩き。雰囲気もあってかよりいっそう美味しく感じる。

途中で新仲見世通りへ左折して冷やかし見物する。再び仲見世通りへ戻り浅草寺へ。

そこで友人がおみくじを引いた。別の友人によればここのおみくじは大吉が少ないらしい(ホントかどうかは分かりません)。

おみくじを引いた結果は、

一同「・・・・・・・・・。」

ちなみにワタクシは引きませんでした。

17:00過ぎに喫茶店で一服入れて、京急の浅草駅から帰路につく。

「もう二度と午前中に三食も食べるのはやめよう」

と決意した観光でした。

おわり

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